耳寄りな心臓の話(61話)『心臓腫瘍の少ない理由』
『心臓腫瘍の少ない理由 』
川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
心臓には、いわゆる「がん(癌)」は少ないとされています。粘液種などの良性腫瘍は時にみられますが、心臓に悪性腫瘍の発生することは極く希いうことです。心筋細胞には未分化な細胞はないからという病理学的な説明のほかに、収縮を繰り返し流れの早い心臓には「がん」細胞の取り付く島がないからとか、心臓の血液が一番高温で「がん」細胞が育ち難いからとか、はたまた心臓から「癌」に強いホルモンが出ているからではないかなどと喧々諤々(けんけんがくがく)です。
癌腫と肉腫の違い
心臓にできる悪性腫瘍は厳密には、癌はなく肉腫と呼ばれるものです。一般に悪性腫瘍といいますと、皮膚や粘膜など体表や器官の内腔の表面をおおう上皮性組織から発生する癌腫と、血管・骨髄・筋肉・骨など非上皮性組織に起源を持つ肉腫に二分されます。
心筋は顕微鏡でみますと無数の横紋を有する筋繊維からなる横紋筋で構成されていますので、悪性といいましても癌腫ではなく横紋筋肉腫と呼ばれます。ただ、一般に「がん」と呼ぶ場合は、癌腫のほか広く肉腫や白血病なども含めています。癌腫は胃がん、膵臓がん、皮膚がんなど臓器の名前を付けて呼ばれます。組織学的には腺癌、偏平上皮癌、移行上皮癌、未分化癌などに分類され、ヘパトーマ(肝細胞癌)、グラウィッツ腫瘍(腎細胞癌)など特定の名称がつけられる場合もあります。
一方、肉腫には血管肉腫、リンパ肉腫、横紋筋肉腫、平滑筋肉腫、骨肉腫などがあります。多くの肉腫は速やかな発育を示し、中高年に多い癌腫に比べると比較的若年者に発生するものが多く、また周囲組織の破壊性では癌腫以上に悪性度の高いものもあります。肉腫の転移は主として血行によって行われ、癌腫のようにリンパを介して行われることは希とされています(図1)。
心臓腫瘍の少ない理由
心臓には粘液腫という良性の腫瘍の発生することが特徴的で、腫瘍片が脳梗塞を起こす危険性のあることから、緊急開心術の適応になります(図2)。
もともと心臓に原発する腫瘍は少なく、剖検例でもわずか0.001?0.003 % と集計されており、その中で悪性腫瘍は約25%とされています。そこで、心臓に悪性腫瘍の発生が少ない理由として、次のような幾つかの説があげられています。
◎心筋細胞は高度に分化しており、細胞分裂を起こさない。
心臓は横紋筋という特殊な筋肉とその間にある結合組織や血管からできていますが、分化の進んだ細胞である横紋筋は細胞分裂を起こしません。このように、高度に分化した心筋細胞からなる心臓は、細胞の異常増殖の病気である癌や肉腫を発生しないという説です。
◎がん細胞は高温に弱く、40℃で死滅してしまう。
免疫を担う大型の単核細胞であるマクロファージは体温が上昇して38.5℃になると活性化し、1℃上がると免疫力は5?6倍になるとされています。一方、がん細胞は体温が35℃前後の低い時に最も増殖するのですが、39℃以上になると増殖が止まり、42℃を超えると多くのがん細胞は死滅してしまうといいます。進行がん療法に、全身を41.5?42℃に加温する温熱療法(ハイパーサーミア)が併用されるのは、がん細胞は高温に弱いという理由からです。一般に、がん細胞は乳酸のせいで酸性に傾きpH(ペーハー)が低いために、熱に弱いと考えられています。このように、心臓内は最も体温が高くて40℃近くもあり、腫瘍細胞は40℃もある心臓の熱に勝てず、死滅してしまうのではという説です(図3)。
◎心臓内は流れが速く、がん細胞の取り付く島がない。
がん細胞はリンパ流や血流に乗って転移されるとされ、肺や肝臓は毛細血管が張り巡らされた構造になっていて転移しやすいのに対し、冠動脈から心筋内に入った血流の多くは毛細血管叢を経て冠静脈に入り右心房に還流するのですが、心筋内の血管叢の一部が直接心腔と短絡的に交通しているという特殊構造があるために、そのまま通過してしまい、さらには血流の早い心臓にはがん細胞の取り付く島がないという考えです。しかし、川の流れの中心部は早いとしても、岸辺はそれ程でもないように、心内膜炎の際には流れに乗って到達した細菌が心臓内の損傷した内膜や弁膜に菌魂を作ることからみて、取り付く島がないというのは余り説得力がないように思われます。
◎心臓から癌抑制ホルモンが出ている。
最近になって、心臓からも幾つかのホルモンの出ていることが明らかになりました。その中で心房から分泌されるナトリウム利尿ペプチド(ANP)が肺癌術後の転移を抑制していることがわかり、国内では大きなプロジェクトが進行しているところです。ANPを筆頭にした3種の心臓内分泌因子については次項で詳述しますが、心筋の肥大や繊維化を抑制している他に心臓自
身の腫瘍発生も抑制しているのではという考えが最も有力になりつつあります(図4)。
BNPが心不全の指標に
近年になって心臓も特別な機能をもつホルモンを分泌していることがわかりました。心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)と脳性ナトリウム利尿ペプチド(BNP)それにC-typeナトリウム利尿ペプチド(CNP)と呼ばれる3種のホルモンです。
ヒト心房(Atrium)から分泌されるANPが、わが国の研究者によって単離同定され、強力な利尿作用、血管拡張作用を有していることが明らかになり、すでにハンプ(h-ANP)という製剤名で鬱血性心不全の治療に用いられています。もう一つは、当初は主に脳(Brain)から出ているとされたBNPの方は、実のところ脳よりも心室から多く分泌されることがわかり、しかも心不全の悪化にともなって分泌が増加することから、血中BNP濃度の変化は心機能の優れたマーカーとされています。血管新生を抑制し血管拡張を促進するC-type(CNP)が血管内皮から分泌されていることも明らかにされました。
BNPなどはすでに検診の検査項目にも組み込まれており、健常者のBNP値は20pg/m1前後とされ、心疾患や心不全のスクリーニングには上限50pg/m1 が妥当とされています。高齢者に多くみられる心房細動例の多くは200前後と、無症状の割には高値を示し、肥厚した心房外膜側脂肪層とくに褐色脂肪組織の動態に関係しているのかも知れません。
ANPが術後転移を防ぐ
日本胸部外科学会の学術調査(2010年) によりますと、2004年に国内の80%の施設で切除された肺癌11,663例の5 年生存率は約70%と年々手術成績は向上していますが、術後の再発や転移を起こしやすい癌とされていますので、術後のフォローが重要です(図5)。
その転移を防ぐホルモンが心臓から出ているというのです。心不全の治療薬としてすでに承認されているハンプ@の開発にかかわった医師が出張先で肺癌術後の不整脈や心不全の予防目的でハンプ@を用いたところ、彼の担当した例のみに術後転移の明らかに少ないことが分かりました。この医師は培養細胞を用いた研究で、肺癌手術直後に血管内皮に出現する接着分子が血管中に散った肺癌細胞の定着を促進し、転移・再発の土台になっていることを発見し、手術直後の3日間、この接着分子の発現を抑えることができれば、転移・再発のリスクを下げることが可能であることを見出したのです。
そこで、ANPの癌転移の抑制効果を詳しく調べるために、全国9施設肺癌手術500例を手術の 前3日間ANPを点滴する群としない群に分けて、手術後に肺癌の転移した割合などを比べる臨床試験が開始されるというわけです。
ANPはまた、血管平滑筋や血管内皮細胞の増殖・肥大を抑制していることも分かり、心臓自体に悪性腫瘍の発生の少ないことにも、ここに秘密があったのかも知れません。
癌腫と肉腫の違い
心臓にできる悪性腫瘍は厳密には、癌はなく肉腫と呼ばれるものです。一般に悪性腫瘍といいますと、皮膚や粘膜など体表や器官の内腔の表面をおおう上皮性組織から発生する癌腫と、血管・骨髄・筋肉・骨など非上皮性組織に起源を持つ肉腫に二分されます。
心筋は顕微鏡でみますと無数の横紋を有する筋繊維からなる横紋筋で構成されていますので、悪性といいましても癌腫ではなく横紋筋肉腫と呼ばれます。ただ、一般に「がん」と呼ぶ場合は、癌腫のほか広く肉腫や白血病なども含めています。癌腫は胃がん、膵臓がん、皮膚がんなど臓器の名前を付けて呼ばれます。組織学的には腺癌、偏平上皮癌、移行上皮癌、未分化癌などに分類され、ヘパトーマ(肝細胞癌)、グラウィッツ腫瘍(腎細胞癌)など特定の名称がつけられる場合もあります。
一方、肉腫には血管肉腫、リンパ肉腫、横紋筋肉腫、平滑筋肉腫、骨肉腫などがあります。多くの肉腫は速やかな発育を示し、中高年に多い癌腫に比べると比較的若年者に発生するものが多く、また周囲組織の破壊性では癌腫以上に悪性度の高いものもあります。肉腫の転移は主として血行によって行われ、癌腫のようにリンパを介して行われることは希とされています(図1)。
心臓腫瘍の少ない理由
心臓には粘液腫という良性の腫瘍の発生することが特徴的で、腫瘍片が脳梗塞を起こす危険性のあることから、緊急開心術の適応になります(図2)。
もともと心臓に原発する腫瘍は少なく、剖検例でもわずか0.001?0.003 % と集計されており、その中で悪性腫瘍は約25%とされています。そこで、心臓に悪性腫瘍の発生が少ない理由として、次のような幾つかの説があげられています。
◎心筋細胞は高度に分化しており、細胞分裂を起こさない。
心臓は横紋筋という特殊な筋肉とその間にある結合組織や血管からできていますが、分化の進んだ細胞である横紋筋は細胞分裂を起こしません。このように、高度に分化した心筋細胞からなる心臓は、細胞の異常増殖の病気である癌や肉腫を発生しないという説です。
◎がん細胞は高温に弱く、40℃で死滅してしまう。
免疫を担う大型の単核細胞であるマクロファージは体温が上昇して38.5℃になると活性化し、1℃上がると免疫力は5?6倍になるとされています。一方、がん細胞は体温が35℃前後の低い時に最も増殖するのですが、39℃以上になると増殖が止まり、42℃を超えると多くのがん細胞は死滅してしまうといいます。進行がん療法に、全身を41.5?42℃に加温する温熱療法(ハイパーサーミア)が併用されるのは、がん細胞は高温に弱いという理由からです。一般に、がん細胞は乳酸のせいで酸性に傾きpH(ペーハー)が低いために、熱に弱いと考えられています。このように、心臓内は最も体温が高くて40℃近くもあり、腫瘍細胞は40℃もある心臓の熱に勝てず、死滅してしまうのではという説です(図3)。
◎心臓内は流れが速く、がん細胞の取り付く島がない。
がん細胞はリンパ流や血流に乗って転移されるとされ、肺や肝臓は毛細血管が張り巡らされた構造になっていて転移しやすいのに対し、冠動脈から心筋内に入った血流の多くは毛細血管叢を経て冠静脈に入り右心房に還流するのですが、心筋内の血管叢の一部が直接心腔と短絡的に交通しているという特殊構造があるために、そのまま通過してしまい、さらには血流の早い心臓にはがん細胞の取り付く島がないという考えです。しかし、川の流れの中心部は早いとしても、岸辺はそれ程でもないように、心内膜炎の際には流れに乗って到達した細菌が心臓内の損傷した内膜や弁膜に菌魂を作ることからみて、取り付く島がないというのは余り説得力がないように思われます。
◎心臓から癌抑制ホルモンが出ている。
最近になって、心臓からも幾つかのホルモンの出ていることが明らかになりました。その中で心房から分泌されるナトリウム利尿ペプチド(ANP)が肺癌術後の転移を抑制していることがわかり、国内では大きなプロジェクトが進行しているところです。ANPを筆頭にした3種の心臓内分泌因子については次項で詳述しますが、心筋の肥大や繊維化を抑制している他に心臓自
身の腫瘍発生も抑制しているのではという考えが最も有力になりつつあります(図4)。
BNPが心不全の指標に
近年になって心臓も特別な機能をもつホルモンを分泌していることがわかりました。心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)と脳性ナトリウム利尿ペプチド(BNP)それにC-typeナトリウム利尿ペプチド(CNP)と呼ばれる3種のホルモンです。
ヒト心房(Atrium)から分泌されるANPが、わが国の研究者によって単離同定され、強力な利尿作用、血管拡張作用を有していることが明らかになり、すでにハンプ(h-ANP)という製剤名で鬱血性心不全の治療に用いられています。もう一つは、当初は主に脳(Brain)から出ているとされたBNPの方は、実のところ脳よりも心室から多く分泌されることがわかり、しかも心不全の悪化にともなって分泌が増加することから、血中BNP濃度の変化は心機能の優れたマーカーとされています。血管新生を抑制し血管拡張を促進するC-type(CNP)が血管内皮から分泌されていることも明らかにされました。
BNPなどはすでに検診の検査項目にも組み込まれており、健常者のBNP値は20pg/m1前後とされ、心疾患や心不全のスクリーニングには上限50pg/m1 が妥当とされています。高齢者に多くみられる心房細動例の多くは200前後と、無症状の割には高値を示し、肥厚した心房外膜側脂肪層とくに褐色脂肪組織の動態に関係しているのかも知れません。
ANPが術後転移を防ぐ
日本胸部外科学会の学術調査(2010年) によりますと、2004年に国内の80%の施設で切除された肺癌11,663例の5 年生存率は約70%と年々手術成績は向上していますが、術後の再発や転移を起こしやすい癌とされていますので、術後のフォローが重要です(図5)。
その転移を防ぐホルモンが心臓から出ているというのです。心不全の治療薬としてすでに承認されているハンプ@の開発にかかわった医師が出張先で肺癌術後の不整脈や心不全の予防目的でハンプ@を用いたところ、彼の担当した例のみに術後転移の明らかに少ないことが分かりました。この医師は培養細胞を用いた研究で、肺癌手術直後に血管内皮に出現する接着分子が血管中に散った肺癌細胞の定着を促進し、転移・再発の土台になっていることを発見し、手術直後の3日間、この接着分子の発現を抑えることができれば、転移・再発のリスクを下げることが可能であることを見出したのです。
そこで、ANPの癌転移の抑制効果を詳しく調べるために、全国9施設肺癌手術500例を手術の 前3日間ANPを点滴する群としない群に分けて、手術後に肺癌の転移した割合などを比べる臨床試験が開始されるというわけです。
ANPはまた、血管平滑筋や血管内皮細胞の増殖・肥大を抑制していることも分かり、心臓自体に悪性腫瘍の発生の少ないことにも、ここに秘密があったのかも知れません。