耳寄りな心臓の話(第26話)『車椅子大統領の高血圧』
『車椅子大統領の高血圧 』
F・D・ルーズべルト 1882-1945
北里柴三郎1852-1931 /鈴木梅太郎1874-1943 -北里柴三郎1852-1931 /鈴木梅太郎1874-1943- -北里柴三郎1852-1931 /鈴木梅太郎1874-1943- -北里柴三郎1852-1931 /鈴木梅太郎1874-1943- -北里柴三郎1852-1931 /鈴木梅太郎1874-1943-
川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
第二次世界大戦の終局を間近にしてアメリカ史上唯一の4選を果たした第32代大統領フランクリン・D・ルーズべルトはイギリスのチャーチル、ソ連のスターリンとともに戦争終結後の処理を話し合うべく車椅子でヤルタ会談に臨みましたが、その2か月後に異常な高血圧による広範な脳出血を起こし帰らぬ人となりました。日本贔屓のルーズべルト大統領の在任がもう少し長かったら、広島、長崎への原爆投下は行われなかったのではとの声も聞かれます。
車椅子大統領の持病
39歳でポリオ(小児麻痺、後世の検討では多発性神経炎の一種のギラン・バレー症候群だったのではと)にかかり車椅子の生活を余儀なくされたフランクリンは、第26代大統領シーオドア・ルーズベルトの姪で従妹の妻エレーナの献身的な看病と励ましもあって、ニューヨーク州知事を皮切りに中央政界に復帰しました(図1)。
1933年、第32代大統領に選出されたF・D・ルーズべルトは、米国の経済危機打開のために「ニューディール政策」を実施しました。2期目からは高血圧が認められ、就任時は136/78だった血圧は1937年には162/98、1941年には188/105と昇り続け、1944年4月には200/108となり、心尖拍動が左前腋窩線に位置するまで心臓も拡大し続けました。1944年の春から咳が続き、鬱血性心不全と診断されジギタリスの服用で軽快しましたが、アメリカ史上初の大統領4選を目指して遊説中の1944年11月の血圧は260/160にも達しました。
因みに、当時の大統領の任期は2期8年までが慣例でしたが、大戦継続中ということで3選を果たし、さらに有事ということで4選を目指したものでしたが、その後は2選までと正式に憲法で定められました。
当時は高血圧自体は治療の対象とされず、心臓の筋肉が厚くなる心肥大も高血圧にたいする好ましい反応と考えられ、よほどの合併症がないかぎり治療をしなかったのです。高血圧はすぐに治療すべしとの考えが起こったのは、皮肉にも大統領の死後間もない1940年代後半のことであり、1950年代後半になって、サイアザイド系利尿薬(ダイクロトライド®など)が世に出て降圧療法が一般化されはじめたのです。
ジョン万次郎少年への憧憬
1841年、土佐中浜湾から出漁して遭難し、鳥島に漂着した万次郎ら5人は5か月後にアメリカの捕鯨船に救助されてハワイに上陸しましたが、14歳だった万次郎少年だけはホイットフィールド船長の故郷であるボストン郊外のフェアヘブンに伴われ初等教育を受けることになりました。賢くて礼儀正しく優しい人柄のジョン・万次郎は船長一家に可愛がられ、国内では漢字すら習ったことがなかった少年は好奇心と熱心さでアメリカの高等学校まで進学しました。航海術を学んで捕鯨船にも乗った万次郎でしたが望郷の念捨てたく、11年後に鎖国下の故国日本にたどり着きます(図2)。
長い取り調べはあったものの、特例として幕府に取り立てられて帯刀を許され、名字もいただき中浜万次郎としてペリー来航時の日米修好条約調印や咸臨丸での渡米などに参画し、日本とアメリカとの懸け橋となりました。
ホイットフィールド船長の捕鯨船の共同出資者でもあったルーズベルト大統領の母方の祖父のデラノ2世の邸宅が万次郎が住まいした家の斜め向かいにあり、幼少時をフェアヘブンで過ごしたフランクリン少年は、まじめでひたむきな日本の万次郎少年のことを祖父から度々聞かされ、日本人に親近感を持って育ったといいます。この時代の富豪の子弟の例に洩れず、フランクリンは公立の学校には行かずに家庭教師のもとで教育され、同世代の子供と交わる機会がほとんどなかったことも、日本からのジョン少年に憧憬を抱く大きな誘因になったと思われます。
大戦に突入する直前の1933(昭和8)年6月、ホワイトハウスから万次郎の長男・東一郎のもとに一通の手紙が届けられました。東大医学部を出て森鴎外や北里柴三郎らとともにドイツ留学を終えた中浜東一郎に向けた書簡には、「親愛なる中浜博士。私は、あなたの父上をフェアヘブンにお連れした捕鯨船の船主の一人、デラノの孫です。あなたの父上は、わたくしの祖父の家の向かいに住んでおられ、私が幼い頃、祖父は日本の賢い少年が学校に通ったことや、家族と一緒に教会に行ったことをよく話してくれました。中浜の名前は、私ども家族にいつまでも記憶されることでしょう。フランクリン・D・ルーズベルト」とあった。この手紙には、緊迫した日米関係を憂慮して戦争を回避したいという大統領の願いが込められていたのかもしれません。
また、1940(昭和15)年6月、ホイットフィールド船長の曾孫で大統領の従弟にあたるウイラード・デラノ・ホイットフィールド(26歳)が、船長と万次郎が出会って100周年を記念して来日し中浜家と懇親を深めましたが、大統領からの和平の密命を帯びていたのかも知れません。
三巨頭によるヤルタ会談
しかし、翌年には真珠湾奇襲から太平洋戦争に突入してしまい、親日家とされた大統領も日系人の強制収容政策を推し進めざるをえなくなりました。アメリカ史上唯一の4選を果たしたF・ルーズベルト大統領は、1945年1月の就任演説を終えてすぐにクリミヤ半島に飛び、車椅子でイギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長とのヤルタ会談に臨んだのです。三巨頭はソ連の対日参戦、千島列島・樺太などの日本領土の処遇についてのヤルタ密約協定のほか、国際連合の設立なども協議し戦争終結後の国際秩序を規定しましたが、一方では東西冷戦の端緒ともなりました(図3)。
“静かな病”と呼ばれる高血圧におかされていたルーズベルト大統領は寒冷地での一週間に及ぶ会談から帰国して、ウォーム・スプリングスでの温泉保養をとっている最中に、300/190という驚異的な高血圧発作から広範な脳出血を起こして倒れ、不帰の人となりました。直ちに副大統領から第33代大統領に昇格したトルーマンは、その数ヶ月後に広島、長崎への原爆投下に署名したのでした。
妻のエレーナは夫の死後、トルーマンは大統領の要請で国際連合の代表団の一員に指名され、世界人権宣言の起草に着手して世界の人々の尊敬と崇拝の的になり、1952年には来日して昭和天皇と会見し、1962年ニューヨークの自宅で78歳の生涯を閉じました(図4)。