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耳寄りな心臓の話(第21話)『 銃弾よりも多くの命を奪った脚気心』

『銃弾よりも多くの命を奪った脚気心 
 

 

川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
 


 江戸期から明治時代にかけて、脚気(かっけ)が国民病として蔓延し多くの死者を出しました。上下身分の差はなく、将軍や天皇から一般庶民に至るまで脚気に罹ったのですが、とくに都会に出てくらす若者に流行し、足の浮腫やシビレ、知覚異常などがみられることから「江戸煩(わずら)い」、「大阪腫(ば)れ」などと恐れられたものでした。
 いずれも白米を主食にしたことでビタミンB1が欠乏して脚気が起こったものですが、外地に派遣された軍隊ではさらに高率に発生し、敵の銃弾に散った戦死者の数よりも脚気心による病死者の方が遥かに多かったというから驚きです。その後はビタミンの発見もあって脚気も影を潜めたかにみえたのですが、最近再び若者の間で増え始めているのです。


日清・日露戦争での惨禍wikimedia耳寄り21回 図1.jpg


 1904(明治37)年の日露戦争では連合艦隊司令長官・東郷平八郎のもとで勝利に貢献したとされる秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟と同郷・松山出身の俳人・正岡子規ら3人を主軸に明治維新後の日本を描いた司馬遼太郎の『坂の上の雲』がTVドラマ化され人気を博しています(図1)。
 その10年前の日清戦争(明治27年)では4万人を超える脚気患者がでて死者が4千人ちかくもあり、日露戦争では25万人もの脚気患者がでて戦傷病死者4万余人のうち病死者が3万人を占め、病死者の多くは脚気心によるものだったとされています。
 パン食が日常の欧米人や麦飯をとる人にはこのような病気のみられないことから、食事に関係しているらしいことは薄々分かっていたようですが、当時は戦地に行けば白米が食べられるという貧しい時代で、戦場では死地に行かせる兵士に白米を腹いっぱい食べさせたいという部隊長らの心情も強かったようです。21話図2正露丸.png


B1不足による脚気心


 日露戦争など極寒の野戦では冷や飯でお腹を壊して戦意の喪失にもつながった腹痛は木材の防腐剤でもあった「木(もく)クレオソート」を丸薬にした「征露丸」のお陰でなんとか解決し、いらい殺菌力が強く消化管内の異常発酵を抑制する効果があると評判の大衆薬「正露丸」となって今日に至っています。しかし、脚気の方は日露戦争が終結する明治38年になって兵食が麦飯に変更されるまで続出しました(図2)。
 お米の胚芽には沢山のビタミンB1が含まれていますが、玄米を精米して白米にすることで大部分のB1を落としてしまいます。おかず等の副食には結構な量のB1が含まれているのですが、白米ばかりを何杯もの食事を続けることでB1欠乏症に陥ったのです。
 現在では、B1の欠乏によって脚気(べリベリ)の起こることは良く知られており、末梢神経の軸索変性による神経炎を来し、心臓では心筋線維の浮腫・変性によって心拡大を来します。このため全身の倦怠感、動悸を訴え、とくに足の浮腫と腱反射の消失が特徴的で、以来診察時には必ず膝の直下の膝蓋腱(しつがいけん)反射やアキレス腱反射を調べたものです。
 さらに進行すると脚気心があらわれ、中でも激症型の衝心脚気になると血圧の低下、頻脈、乳酸アシドーシスが見られ、急激に全身状態が悪化して死亡してしまいます。21回図3.jpg

脚気の伝染病説論争


 東大に赴任中のドイツの内科医・ベルツ博士の進言もあって、東大・衛生学教授で後に学長を務めた緒方正規(まさのり)らは脚気を細菌感染による伝染病と考えて脚気病菌発見の論文まで発表したこともあって、陸軍軍医総監・石黒直悳(ただのり)や後任の森林太郎らも脚気伝染病説に同調しました。森林太郎はご存じ作家・森鴎外のことであり、陸軍からのドイツ留学では細菌学の大御所・コッホに師事していた北里柴三郎らと親交があり、帰国後に小説『舞姫』やアンデルセンの『即興詩人』の翻訳を発表した明治を代表する文筆家であり、二足の草鞋(わらじ)を穿きながら軍医総監まで上りつめた医師でもあったのです(図3)。
 一方、イギリス留学の経験のある海軍軍医・高木兼寛(かねひろ)は脚気が欧米では見られないことから食事が関係しているのではと考え、練習艦の遠洋航海中の食事を麦食やパンに変えるなどの比較実験を重ねて脚気の発生しないことをつき止めたのです。その他の研究も重ねて日本初の医学博士号を取得し、後に東京慈恵会医科大学の前身21回図4.jpgを築きました。病人のための医学であって欲しいという強い願いから、「病気を診ずして病人を診よ」という彼の残した言葉が有名です(図4)。
 このように、脚気の原因が食料にあるとする高木説に対し、脚気細菌説をとる陸軍の石黒、森らとの間に大きな論争となりましたが、日露戦争に突入しても陸軍の白米至上主義は変わず、戦地では多くの犠牲者を出すことになったのです。この間の海軍での脚気患者は僅かに数十名で死亡者はゼロだったということです。
 ドイツ留学中の北里柴三郎も細菌学の大御所のコッホとともに脚気伝染病説を否定する論文を外国で掲載したことから、親元の東大との間に大きな軋轢が生じてしまいました。破傷風菌の純培養に成功し、帰国したものの東大には席がなく、これを見兼ねた福沢諭吉が屋敷の一部に衛生研究所を造り提供しました。後年、北里は福沢の恩義に報いるべく慶應義塾大学に医学部を創設して、初代学部長を務めました(図5)。耳寄り21回図5北里柴三郎博士.jpg




ビタミンB1の発見


 このように、日清・日露戦争では多くの兵士を外地に送った陸軍は白米を主食として給食し続けたために戦わずして脚気心による多数の死者を出したことになります。「学理を振りかざして多くの兵士を死にいたらしめた姿勢は、現在の薬害エイズにも通じる」と指摘する人もあります。21話図6.png
 





脚気問題も、明治の終わり頃になって、東大農学部の鈴木梅太郎教授が米糠(ぬか)から脚気予防に有効な成分としてオリザニンを抽出したことで、落着しました。同時期にアメリカのフックが発表したチアミンと呼ばれるビタミンB1と同一の成分とわかりました。鈴木教授は主栄養素のほかに生命維持に不可欠ながら体内では生合成できない微量な有機物の存在すること、すなわちビタミン学説の基礎を築いたのです。(図6)。
 このように脚気の原因も明らかとなり、種々の副食がとられるようになり精米技術も進歩して脚気はほとんど影を潜めました。しかし、最近になってインスタント食品やジャンク菓子の普及により、極度の偏食をする人の多くなったことや、アルコールの大量摂取者も増えたことで、再び脚気が問題視されています。
 

 

 
 


 

  

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