日本心臓財団刊行物

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耳寄りな心臓の話(第18話)『心臓病学を確立したホワイト博士』

『心臓病学を確立したホワイト博士 
P. D. ホワイト、1886−1973 

 

川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)


  近代心臓病学の確立には、2歳の妹をリュウマチ熱による心臓病で失い、父を冠動脈疾患で亡くしたことで、小児科医から心臓内科医に転身したアメリカのホワイト博士の果たした活躍に負うところが大きいといわれています。


新たな症候群の連発


 ハーバード大学医学部に学び、マサチューセッツ総合病院に新設された小児科に進んだホワイトは、上司のリー博士とともに血液の凝固時間を簡便に測定できるリー・ホワイト法を確立したことを足掛かりに、給付留学生としてロンドンの心臓病学の大家、ルイス卿のもとで開発されたばかりの心電図学を学び、帰国後は心臓内科医の道を歩みました。18回図1.jpg
 まもなくマサチューセッツ総合病院に心臓部門を立ち上げて、先天的な左冠動脈起始異常を示すB−W−G症候群、副伝導路を介して早期興奮が起こるW−P−W症候群などを次々と発表し、内科教授として主著「心臓病」を上梓するなど、国の内外で精力的に活躍しました。特に、L.ウルフ、J.パーキンソン両先生との共同研究によるW−P−W症候群は、心電図のP波が特徴あるΔ(デルタ)波を形成して早期興奮を起こすもので、さらに頻脈発作を起こす例には副伝導路の外科的切断術が行われ、今日ではカテーテルによる焼却術が一般化されています。
 W−P−W症候群の心電図はしばしば目にするものですが、WPWと呼び捨てすることに多少の抵抗がありました。しかし、ホワイト博士が日本の心電図の大御所であるW先生こと和田 敬(たかし)先生に贈った色紙の中で、“from the second W of the W−P−W”と自らをWPWの二番目のWと記されているのを見せて頂いてからは、安心してWPWと呼ぶことにしています(図1)。
 

殺鼠剤だったワーファリン


  ホワイト博士は狭心症や心筋梗塞など虚血性心疾患の治療にも積極的に取り組み、早くから経口抗凝固薬としてワーファリンを導入したことでも有名です。
 ワーファリンについては、1940年になってウイスコンシン大学の獣医師・リンクらが牛の飼料に混じって出血死を起こすクローバーから出血誘発物質であるダイクマロールを分離し、より強い作用のある誘導体としてワーファリンの合成に成功していました。しかし、当初は殺鼠剤として用いられただけで、抗凝固薬として臨床医学への応用は考えられたものの、副作用の恐れから試みられることはありませんでした。
 ところが、1951年、陸軍の徴集兵が自殺目的で大量のワーファリンを服用したものの、無事蘇生されたことが報道されたことから、再び抗凝固薬として医学への応用が検討され始めたのです。早くも1954年にはアメリカ心臓病協会(AHA)により心筋梗塞に対する臨床試験が開始され、翌年には急性心筋梗塞を発症したアイゼンハワー大統領にワーファリンが投与され回復したこともあって評判になりました。
 このように、血液凝固因子の一つであるプロトロンビンの生成を抑制する抗凝固薬としてワーファリンの有用性が明らかとなり、抗血栓療法の唯一の経口抗凝固薬として現在に至っています。
 

大統領アイクとともに


 1955年、デンバーで休暇滞在中に胸痛に襲われたアイゼンハワー大統領は駆け付けたホワイト博士の指示で近くの傷痍軍人病院に搬送され、左前壁の心筋梗塞と診断されたものの、ほどなく回復して執務が可能となることも予告されました。アイゼンハワー大統領実物切手.png
 アイゼンハワーといえば第二次世界大戦ではヨーロッパ連合軍最高司令官を務めた国民的英雄で、後にアメリカ合衆国第34代大統領に選ばれました。その陸軍元帥が死に至る病とされた急性心筋梗塞に罹って国民の悲嘆は大きかったのですが、初めてのワーファリンの応用と1か月足らずの早期離床で見事に帰り咲いたのです。大統領の病状が慣例を破って刻々と報道され、当時としては画期的なワーファリン使用と最短の離床という斬新な治療で心筋梗塞も十分に回復可能なことを広く世界に知らしめたものでした。
 アイクの退院時には、二期目の大統領執務にも支障のないことをホワイト博士が宣言し、1956年には見事大統領に再選され、それまでの反共強硬政策を軟化させてソ連のフルシチョフ首相との首脳会談を行って東西の雪解けムードを生み出すなど都合8年間の大統領職を全うしました。
 アイゼンハワーは1973年に79歳の生涯を閉じましたが、同年に発行された追悼の記念切手にはアメリカ国旗を背景にしたアイクの笑顔が描かれています(図2)。
 さらに、1976年にはアメリカ建国200周年を記念して
アメリカ建国200周年記念1ドルコイン.pngアイクの肖像入り1ドルコインが発行されましたが、裏面にはアメリカの独立の象徴である「自由の鐘」とアポロの月面着陸を記念した大きな月が描かれています( 図3)。重厚なコインで流通するには大きく重すぎて財布に収まらず、専らラスベガスなどのカジノでスロットマシンに用いられているようです。 

 心臓財団の設立に尽力


 ホワイト博士は心臓病とくに冠動脈疾患の予防にはフィットネスやエクササイズが重要であることを提唱し、率先してウォーキングやサイクリングを実践しました。ボストンの市街にはホワイト先生の名を冠した16マイル自転車路が整備されていると聞きます。ホワイト博士USA切手実物コピー.png
 1921年にはアメリカ心臓病協会(AHA)の立ち上げに加わり、1941年には年次総会の会長を務め、世界心臓病学会や国際心臓財団の設立にも尽力しました。大学を退いてからも、国立心臓研究所(NHI)のチーフアドバイザーを務め、冠動脈疾患の危険因子の疫学的調査の先騒けとなったマサチューセッツ州フラミンガムでの住民健康調査を指揮しました。
 1964年に来日した折に、日本も他の先進諸国と同様に心臓血管病の研究や予防の啓発運動の必要なことを進言されたこともあって、1970年には日本心臓財団が設立されました。
 1970年にも学会出席のために来日されましたが、日本流にいうと米寿を迎えられた1973年に88歳で他界されました。1986年には、ホワイト博士の生誕100年を記念して3セント切手が発行されましたが、後年学会出席で渡米の折にこの切手のシートを入手することができ、ホワイト先生の偉業を偲んで仲間に配ったものです(図4)。 
 

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