耳寄りな心臓の話(第11話)『ルルドの奇跡と血管吻合法』
『ルルドの奇跡と血管吻合法』
−A・カレル 1873−1944−
川田志明(慶応義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
今から約100年前に開発した独自の血管吻合法を用いて数々の臓器移植実験を行い、アメリカ初のノーベル生理学・医学賞の受賞に輝いたフランス人アレキシス・カレル(写真)の話です。
血管外科の進歩は、切除外科に限られていた外科学を再建外科とも呼ぶべき新しい外科に転換させましたが、中でもカレルは近代血管外科に先駆的な貢献を果たしたといえます。
大統領刺殺と血管吻合法
1894(明治26)6月、フランス第三共和政第四代大統領カルノーがリヨン博覧会の開会式場でイタリアのアナキストに襲われ、腹部外傷でリヨン市の救急病院に運ばれましたが、外科医たちは大血管の縫合は不可能で救命不能と判断しました。しかし、皮膚や腸と同じに大血管も縫えないはずはなく、縫合すれば大統領の命を救えたものをと主張したのは、この病院でインターン中の若きアレキシス・カレルで、この事件が血管吻合法の開発など近代血管外科の創始という彼の生涯を決定する大きな契機となったのです。
これより先の1881年に、ウィーン大学の外科医、ビルロートが世界で初めて胃切除術に成功しましたが、この頃は心臓や大動脈など拍動している臓器の縫合は論外と考えていたようで、「心臓や大動脈外傷を縫合しようとする外科医は仲間の敬意を失うであろう」と発言しています。
カレルは絹織物業の盛んな都市であったリヨンの刺繍師から裁縫を習い、レース編みの女工さんから運針を教わって外科用の縫合糸や針を工夫し、実験には黒い衣服をまとって埃を避けるなど滅菌には特別な注意を払いましたが、これらの研究が実を結ぶのは母国フランスではなく遠くカナダを経てアメリカのロックフェラー研究所に移ってからでした。
ルルドの奇跡とフランス脱出
フランス南西部のピレネー山脈北麓に近い小さな町ルルドは、1858年聖母マリアが出現し、奇跡的な病気治療の霊泉とされる「ルルドの水」の湧き出ることで有名な巡礼地になっていました。この霊泉の上にはゴシック風の大聖堂が建てられ、年々世界各地から200万人もの巡礼者が集まり、今でもおびただしい数の病人が運ばれてきて病気の治癒を求めています。
このようなバチカンのローマ法王庁が聖母マリアの出現を認めたお墨付きの聖地としては、ほかにもポルトガルのファーティマとメキシコのグアダルーペがあります。著者も1993年ポルトガルでの国際会議の折に、リスボン郊外のファーティマに出かけてみましたが、1917年に聖母マリアが顕現したという丘には大聖堂が建てられていました。聖堂は大勢の信者で立錐の余地もなく、両膝、両肘に頭を地につける五体投地の礼で石畳を進む巡礼の人々を目の当たりにして、その信心深さに驚いたものです。
さてインターン中のカレルは1903年、聖地ルルドに向かう参拝者の団体列車に付き添い医師として同乗し、死に瀕していた少女が聖水を浴びた途端に急速に回復して独歩するのを目撃しました。この体験を「ルルドの奇跡」事例としてリオンの外科医学会で発表したことで、仲間からは超自然を信ずる非科学者と軽蔑され、教会からは聖母マリア奇跡を疑うとはけしからんと叱責される結果になってしまいました。
カレルの三角血管吻合法
結局、カレルは上級外科医への道が閉ざされ、1904年フランスを離れて新大陸での研究生活に向うことを決意したのでした。
ニュ−ヨークに新設されたばかりのロックフェラー研究所に移った前後の10年間で動物実験を繰り返し、今日の血管外科の基礎となる手法を全て行ったと言っても過言ではありません。中でも、それぞれの吻合端に等間隔で細い支持糸を3か所にかけ、向かい合った糸を仮に結んで二つの血管を密着させ、その間の断端接合部を直線にして連続縫合する"カレルの三角吻合法"を開発したのです。現在の冠動脈バイパス術でも3−4?の直径ですから、「マッチ榛より細かろうと縫合できるようになった」と語っているのは、素晴らしい技術だったことが窺えます。
カレルは動脈同士の吻合、動脈と静脈の吻合、断端と大血管側面との吻合などあらゆる組み合わせで血管縫合を実施し、この手技を臓器移植に次々と応用していったのです。これら一連の血管縫合と臓器移植に対する功績が認められて、1912(明治45)年、カレルはアメリカでは初めてのノーベル生理学・医学賞を受賞しました。しかし、1940年代に至るまで彼の手法はあまり臨床応用されませんでした。
飛行家リンドバーグとの共同研究
1927年、郵便飛行士だったチャールス・リンドバーグは単発機"Spirit of St. Louisスピリッツ・オブ・セントルイス号"でニューヨーク・パリ間の大西洋横断無着陸飛行を成功させ、2万5000ドルもの賞金を獲得して一躍世界の英雄となりました。
その彼がカレルの研究室に加わったのです。
機械工学出身のリンドバーグは、臓器を灌流して細胞を生かすための血液酸素化装置をカレルと共同で考案しました。
小型で単純ながら、現在用いられている人工心肺や人工心臓の1号機だったのです。
このカレル・リンドパ−グ・ポンプを用いることで、ガラス器に移されたニワトリの心臓がニワトリの寿命を超えて生き続けることを証明したことで、臓器移植に先鞭をつけ、また現代の生命観にも大きな影響を与えたのです。
大西洋横断無着陸飛行を成功させたリンドバ−グの回想録、『翼よ、あれがパリの灯だ』は、1954年度のピュリツアー賞を受賞し、映画化され話題となりました。
カレルもその著書『人間−この未知なるもの』(1935年)の中で、ルルドの奇跡にはじまり、細胞と臓器、生と死といった問題を深く解きほぐして人間を総合的に理解することの重要性を説きました。
1938年にリンドバーグとの共著『臓器培養』を出版し、ロックフェラー研究所を辞して生国のパリでビシー政府の援助のもとに人類問題研究所を設立して所長を務め、連合軍のノルマンディ上陸によってパリが開放された年に71歳の生涯を閉じました。