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耳寄りな心臓の話(第1話)『それでも血液は循環する』

■耳寄りな心臓の話(第1話) 『それでも血液は循環する』

『それでも血液は循環する』 
−ウイリアム・ハーヴェー、1616年−


 

川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
 

 

大医学者ガレノスの呪縛 

今では、血液が全身を循環していることを疑う人は誰もありません。静脈を経て右心に戻った血液は肺を通って酸素化されて、左心に入った動脈血は大動脈を介して各臓器に運ばれますが、400年前までは体の大循環と肺の小循環は別なものと信じられていました。

2世紀にギリシャの大科学者ガレノスがローマに出て、食物は腸から摂取されて肝臓へ行き、そこで血液になって右心に入り、左右の心臓を隔てる壁にある小さな多数の「孔」を通って左心に流れ込み、ここで肺からきた「吸気」と一緒になって真っ赤な「生命精気」となって全身を巡るという学説が、中世を経て近世初期に至るまでの約14世紀もの長い間、ヨーロッパ医学の基礎となっていました。

16世紀に入って近代医学の発展の中心となったイタリアのパドバ大学で、解剖学者ベサリウスが自らの手で人体を解剖し、心室の中隔壁には血液を通す「孔」など見えないとしながらも、「小孔のない隔壁を血液が通るという神の摂理に驚く」と婉曲にガレノス説を修正したのですが、それでも多数を占めたガレノス派にベサリウスがベサヌス(ラテン語で「気の狂った」)になったとまで非難さ01-01.jpgれて大学を去ります。

やはりパドバ大学に学んだポーランドの天文学者コペルニクスが「地動説」を唱えた年と同じ、1543年のことでした。確かに心室の中隔壁には筋肉による窪みは多数ありますが、血液を通すことはありません。また生まれつきの小孔があったとしても、右心室の内圧は左心室の1/5しかありませんので、特殊な場合を除いては右から左への流れは起きません。
 

火あぶりの刑を恐れて 


その後、17世紀初頭になってイギリスのウイリアム・ハーヴェーがパドバ大学に 留学してガリレオの科学的実験研究法を身に付け、ロンドンに戻って行った研究から心臓は右心から肺へ、左心から全身へと血液を送るポンプであり血液が全身を循環していることを実証し、14世紀にもわたるガレノスの呪縛を解くことができました(図1。ハーヴェー像)。


すなわち、心室中隔には孔など開いておらず、肺の血管を通っているのは「気」ではなく「血液」であることなどを調べ上げたのです。「血液が動脈を通って全身に行きわたるのは、我が英国のテームズ川が海に注ぎこむごとく確かです」と誇らしく書き送った手紙も残されています。

当時のヨーロッパの歴史を見ますと、1553年にスペインの医学01-02.jpg者・神学者セルブェトスが血液は右心から肺を通って左心に行くと述べたことや三位一体説を批判したことで異端として迫害されジュネーブで火あぶりの刑に処せられていますし、コペルニクスの地動説を支持したガリレオもローマで何回もの宗教裁判にかけられ、「それでも地球は回る」と自説を曲げなかったために1632年に禁固刑に処せられ、その10年後に病没しましたが葬儀も墓標も許されませんでした。

     ハーヴェーの業績は今日では生物学史上最大の発見とされるものですが、1616年に完成した論文の発表を12年も待って1628年になって行ったのは、「邪教として責められ、世界中を敵にまわすのが怖かった」というのが本音だったようです。実際、彼の業績は申し分のないものでしたが、それでも賛否両論が巻き起こり騒然となりました。パリ大学長で解剖学者のリオランは反対の急先鋒に立ちましたが、フランスの哲学者・数学者デカルトやドイツの医学者シルビウスらの賛成を得て、それまでの神話的医学に合理的医学の概念を持ち込むこととなり、今日の心臓病学の礎となりました。(図2)


 

超長寿のパー爺さん 
 

01-03.jpg因みに、スコッチ・ウイスキーの「オールド・パー」のラベルに描かれたトーマス・パー爺さんは1483年にロンドン郊外のウィニングトンに生まれ、100歳を過ぎてから3回も結婚し、オールド・パーと愛称され1635年に152歳の天寿を全うします(図3。「オールド・パー」ラベル)。

150歳を過ぎてからロンドンに出てチャールズ一世に拝謁し、オランダを含むフランドル大使として滞在中だった画家ルーベンスが肖像画を描きましたが、宮廷での歓待続きが災いしてか拝謁の2か月後に152歳の生涯を閉じました。パー爺さんの最期を看取り解剖を担当したのが国王の侍医でもあった57歳のハーヴェーであり、異例の長寿者としてシエクスピアなど錚錚たる偉人たちの眠るウエストミンスター寺院に葬られました。

パー爺さんはエドワード4世にはじまりヘンリー8世やチャールズ1世と10代もの国王の時代を生き抜いたことになりますが、日本では室町という戦乱の時代で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの武将が生まれ活躍した時代でもあります。

イギリスでは戸籍法の整う前の時代ですが、農村といえども借地契約などの書類
管理はすすんでおり、それらの記録から実在した人物と考えられ、子供たちや孫の中にも100歳や120歳の長寿者が何人も出たといいますから、驚異的な長寿の家系だったようです。

 

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