日本心臓財団刊行物

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耳寄りな心臓の話(68話)『無呼吸に横隔膜ペースメーカー』


『無呼吸に横隔膜ペースメーカー

川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
68図1.jpg 2005年4月、太めの運転士が起こしたJR福地山線脱線転覆事故はスピードの出し過ぎと居眠りが原因だったのではと報道されました。その後もツアーバスの激突事故が続き、肥満者に多い「睡眠時無呼吸症候群」が大きな社会問題になりました(図1)。古くは、「ピックウィック倶楽部」の太った御者も子守歌で有名なクラシックの巨匠も、昼間から大きないびきをかいていたといいます。就眠中に数十秒間も呼吸が止まる無呼吸状態を繰り返す重症例になると、ついには心臓病を誘発することが知られています。「オンディーヌの呪い」とも呼ばれる中枢性無呼吸の治療には人工呼吸器しかありませんでしたが、最近では頚椎損傷や難病の筋萎縮性側索硬化症にみられる呼吸麻痺にも、横隔膜ペースメーカーが植え込まれるようになり、大きな話題になっています。


太めの無呼吸症候群
 10秒以上の換気停止を睡眠中に1時間あたり5回以上繰り返す場合を、睡眠時無呼吸症候群(SAS、サス)と呼んでいます。閉塞型と中枢型に分けられますが、大部分を占める閉塞型では肥満のほかアデノイド、扁桃肥大、鼻中隔湾曲症などによる気道の狭窄も原因になります。症状は強いいびき、睡眠障害や起床後の頭重感、日中の傾眠傾向ですが、眠気に伴う交通事故や社会的不適応などが大きな問題となります。長引くと低酸素血症により狭心症や心筋梗塞、高血圧、不整脈、肺高血圧症などの心血管疾患を来たすことがあります。診断には脳波、筋電図などによる睡眠の深さの判定と口・鼻孔サーミスターによる無呼吸の検知を行います。さらに、胸郭と腹部の換気運動の観察も行い、閉塞型と中枢型を分類します。指先につけたパルスオキシメーターによる動脈血の酸素飽和度の測定が有用で、重症例では無呼吸中は通常の95%から70% 台などへと著明に低下するのが認められます。入院時検査ではこれらのデータは睡眠ポリグラフと呼ばれる器機に一体化され解析されます。治療としては、肥満者では先ずは減量が必須ですが、就眠時の舌根沈下に対して下顎を前方に移動させて咽頭腔の開大を図るマウスピースの装着が有用とされます。さらに重症例では特殊マスクを着用した持続的気道陽圧呼吸(CPAP,シーパップ)が効果的といわれています(図2)
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冤罪のピックウィック症候群
 極度の肥満者では胸郭の進展が制限されて換気が不十分となり、慢性的な低O血症とCOの蓄積が起こるために、傾眠、頭痛、人格変化などがあらわれ、赤血球増多症や肺高血圧症を来たして心臓に負担がかかり肺性心に移行するとされています。無呼吸の様子がユーモアとペーソスに富んだ文章で有名なイギリスの作家、チャールズ・ディケンズの「ピックウィック・クラブ遺文録」に登場する居眠りばかりしている肥満の御者・ジョー(Fat Joe)に似ていることから「ピックウィック症候群」と呼ばれることもあります。確かに倶楽部の会長はじめ主要人物はお腹の出た恰幅のいい紳士として描かれていますが、当時の英国上流社会の典型的体型であったと思われます。しかし、昼間から大いびきをかいて眠り込むような会員をみられず、肥満の御者・ジョーだけが手綱を取りながらでもトランプのフルハウスを上がりながらも眠りこけている場面がいくつかの挿絵にみられ、今でいうSASの走りだったと思われます。このまま「ピックウィック症候群」と呼び続けたのでは、善良で滑稽で元気な老人の集まりである名門ピックウィック倶楽部会員の持病と間違われるなど、冤罪そのものとなり、会員諸氏には迷惑千万な症候群に違いありません(図3)


68図3と4.jpg 寝入る巨漢ブラームス
 ブラームスにも今でいうSASがみられたようで、よく食べよく飲み、生涯独身を通した巨匠でしたが、シューマン夫人で作曲家のクララに横恋慕した頃から極端なメタボ体型となり、演奏会の最中を含め所構わず居眠りをしていたといいます。
 ドイツ語の「Guten Abend,Guten Nacht,von Eng'lein bewacht―――(お休みなさい、お眠りなさい、天使たちに見守られ―――)」ではじまる自作の子守歌の睡眠効果は別として、朋友リストのピアノ演奏会で居眠りをしたり、マーラーの指揮する演奏を聞きながら客席で大いびきをかいていたなどの逸話も残されています。
 ブラームスといえば、世界で初めて胃切除術に成功した外科の泰斗ビルロートの朋友で、ビルロートにもピアニストを目指したほどの楽才があり、外科手術のかたわら音楽評論も手がけていたといわれています。もともと、音楽の都ウィーンを目指すブラームスと一緒ならとウイーン大学に赴任した経緯が有り、弦楽四重奏曲の第1と第2はビルロートに献呈されたものというあたりも、外科学の講義で時々持ち出される有名な話です(図4)

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細身のオンディーヌの呪い
 原発性肺胞低換気症の一つで呼吸中枢の自動能の欠如による中枢型無呼吸の方は、伝説の水の精の物語に因んで「オンディーヌの呪い」と呼ばれています。こちらは肥満を伴わず、むしろスリムな妖精が登場します。オンディーヌはアンデルセンの「人魚姫」など北欧の民話に出てくる水の精で、人間界に出て人並みに結婚は許されるものの、離婚されると元の尻尾をつけて海に戻されるなど、地域によって「掟」はいろいろで、「人魚姫」では海水の泡にされてしまう話となっています。ところがフランスの劇作家ジロドゥの戯曲「オンディーヌ」では、永遠の愛を信じて人間界に入った水の精オンディーヌと騎士ハンスの運命的な対立を描いたもので、「掟」は別れた夫にまで及び、ものを見たり聞いたりするにはその都度目や耳に命じなければならないという制約が課せられます。日中は大丈夫としても、眠ってしまうと呼吸ができなくなるというわけですから大変です。オンディーヌが夫の騎士ハンスとの互いの貞節を初めて理解し、二人に宿命の判決がくだされるまでの無呼吸との闘いながらのフィナーレは、まさに悲恋物語の極みといえます。このように、「オンディーヌの呪い」とはいうものの、オンディーヌが呪いをかけるのではなく、かけられる被害者なのですから、こちらも冤罪という外ありません(図5)


お腹に横隔膜ペースメーカー
68図6.jpg 30年前になりますが、「オンディーヌの呪い」と診断された原発性無呼吸症候群の女性二人に、アメリカから独自に輸入した横隔膜ペースメーカーを植え込んだことがあります。「呪い」のかかる夜間のみペーシングを作動させることで、呼吸が確保され悪夢に襲われることもなく目覚めがよくなったと喜ばれました。当時は局所麻酔で頸部を切開して、皮下を通る左右の横隔神経に刺激用電極を結びつけ、外部から刺激を送る方式でしたが、自費でかなりの高額となり、心臓ペースメーカー3台分ほどの値段でした。
 最近では、頸部の横隔神経ではなく、腹腔鏡を用いてお腹から横隔膜の下面の筋肉に直接電極を縫着する方式がとられるようになり、原発性無呼吸症候群のほかに、神経変性で呼吸不全に陥る筋萎縮性側索硬化症(ALS、アミトロ) という難病にも適応が広がり、大きな福音となっています。
 ただ、横隔膜に電気刺激を与えるということでは心臓ペーシングと似ているのですが、横隔膜は骨格筋ですので単一刺激では1回の収縮しか生じませんで、シャックリのような運動になってしまいます。スムーズな呼吸運動を得るためには横隔膜に電気刺激を連続して漸増するパルス刺激波として与え続ける必要があります。実際の刺激頻度として10?20Hz(1秒間に10?30回)刺激で有効な換気量を得るように調節しますので、リチューム電池などでは間に合わず、外部から電気を送る必要があります。
 ALSは神経細胞が進行性に脱落してゆく神経変性疾患であり、高度の筋力低下と筋萎縮が特徴ですが、原因は不明のままです。変性する可能性のある横隔神経を介さないで横隔膜を直接刺激することで呼吸運動を行うことができる横隔膜ペースメーカーの新しいユニットはALSにとっては大きな福音ですが、国内では治験が始まったばかりで、未だ保険償還の対象となっていないのが実情です(図6)

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