耳寄りな心臓の話(57話)『悲嘆傷心死は起こり得るか』
『悲嘆傷心死は起こり得るか 』
川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
シェイクスピアの悲劇「リア王」では、娘の遺体を腕に抱きながら嘆き悲しみ絶叫して世を去る場面がクライマックスになっています。しかし、中世の文学は特別なものとしても今日の日常生活で悲嘆や傷心がもとで心臓死するということが起こり得るのでしょうか。
ところが、地震や津波などの大災害の際の驚きや落胆、傷心が元で急性心筋梗塞に似た症状タコつぼ心筋症が多発して落命する人もあることがわが国から報告され注目されています。一方、伴侶の死の直後に心臓発作を起こすリスクが21倍にも達するという知見が米国から出ているのです。文学的な表現にとどまることなく、悲嘆に暮れた「心の傷」が実際に心臓発作などの「心臓の損傷」を引き起こし、死につながる人もいるのだということです。
「リア王」の悲嘆傷心死
死・破滅・敗北・苦悩などが主題となるシェイクスピアの四大悲劇の一つ『リア王』では、ブリテン王のリアが高齢で退位するにあたり遺産を巡って純情で父親思いの三女コーデリアを意見の違いから勘当してしまいますが、長女と次女に裏切られ次第に狂気にとりつかれてしまいます。フランス王妃になったコーデリアが窮地のリア王を助けようとするものの捕らえれて獄中死してしまい、一人助けだされたリアは三女の死に直面して悲嘆のあまり悶死してしまうのです。娘の遺体を抱いて現れたリアが悲しみに絶叫し傷心死する場面が、舞台や映画でのクライマックスとなっています。(図1)
史実によっても中世にはこのような悲嘆死は珍しいことではなく、1632年当時のロンドン市民30万人の年間死因統計によれば1万人の死亡者があり、肺結核のほかに天然痘、ペストなどの伝染病が蔓延していた時代で新生児死亡が最も多いのですが悲嘆死(grief)8人も含まれ、その後の30年間に悲嘆死350人もが計上されているのです(図2)。
といいますのも、ルネサンス期までの医学観の基礎となっていたのは四大体液説で、血液、粘液、黄色胆汁、黒色胆汁の4種の体液(ユーモア)が調和すれば健康で、平衡が崩れると病気が起こるとの考えが主流でした。食欲不振や汚染空気、睡眠不足などがユーモアのバランスを壊し、さらには悲嘆などの感情変化が強く影響し、中でも鬱状態は冷たく乾いたユーモアが体を冷やし、生きるための生気や熱を奪ってしまうと説いていたのです。
大災害とタコつぼ心筋症
悲嘆のあまり悶死したなどは文学的な表現ととらえられがちですが、現実にも大災害による驚きや長引く悲嘆が人を心臓死に追いやったという事例がしばしばみられるのです。1995年の阪神・淡路大震災、2004 年の新潟中越地震それに2013年の東北・関東を襲った大災害の際、被災高齢女性の間で高率に急性心筋梗塞に似たタコつぼ心筋症を発症したことが報告されました(図3)。
このような心臓発作には大災害時の精神的なストレスが大きく関与しているとされ、配偶者や親族の死亡をはじめ、不安や興奮、恐怖がきっかけとなり発症することもあると考えられます。タコつぼ心筋症は災害や悲嘆だけでなくクモ膜下出血や重症の熱傷あるいは人工呼吸器の装着時などの疾患に合併しても認められ、原因として神経伝達物質であるカテコールアミンの過剰分泌や、冠動脈攣縮による心筋虚血などの関与が考えられ、また高齢女性に多いことから女性ホルモンの一つエストロゲンとの関与も指摘されていますが、その正確な機序は未だ不明です。急性心筋梗塞と似た症状を示し、多くの例は時間の経過とともに回復するものの、少数ですが死亡例も報告されています。世界各地からも似た事例が次々と報告され、Takotsubo cardiomyopathy(タコつぼ心筋症)、Broken heart syndrome(傷心症候群)などとして注目されています。
伴侶死直後に頻発する心臓発作
老夫婦が相次いで倒れると、道連れとして美談にされることがあります。ところが、伴侶の死の直後には心臓発作で倒れるリスクが21倍以上にも増加するというデータが、米国の有名な医療センターから発表されました。時間の経過とともに心臓発作のリスクは低下するものの、大切な人の死後の数週間はリスクの高い状態が続くというのです。失意で受ける「心の傷」が、心臓発作につながる「心臓の損傷」を引き起こすことがわかりました(図4)。1989年からの5年間に急性心筋梗塞で入院した1,985人の面接調査から、270人が6か月前までに、そのうち19人が1日以内に大切な人を失っていたのです。このように、伴侶と死別した24時間以内は急性心筋梗塞の発症率がなんと21.1 倍にも上昇し、最初の1週間は6倍を示し、少なくとも1 か月間はリスクが通常よりも高い状態が続くというものです。悲嘆にくれ、眠れない食欲がないなどのほか服用薬も忘れがちとなり、ストレスホルモンも高くなるなどが引き金となって、タコつぼ心筋症のような病態が起こっているのかもしれません。
ペットロス症候群とグリーフケア
伴侶に限らず、子供や親、友人など大切な人を亡くして大きな悲嘆(グリーフ)に襲われることは多々あります。悲嘆の程度は人によって様々ですが、時には不眠や食欲不振など身体の不調につながることもあります。悲嘆にくれるものの徐々に事実を受け入れ、環境の変化に適応するなど時間が解決してくれるというものの、時には支援するグリーフケアを必要とする人もいるのです。一方、ペットロス症候群は、愛玩していたイヌや猫などのペットを失った喪失感から大変な悲しみにおそわれ、号泣するだけでなく、不眠、食欲不振、食べ過ぎ、胃の痛み、息苦しさなどを訴え、抑鬱状態になり自身では立ち直れない状態をいいます。ことに近年の核家族化によってペットが家族の一員あるいはそれ以上に比重をもつような場合もあり、これらの事例は子育ての終わった50 歳台の主婦に多いとされています(図5)。
ペットを急に失ったことで「こんなにも悲しむ自分は異常ではないか」という自虐の念にとらわれる一方で、周囲には「たかがペットぐらいで大騒ぎしている」と思う人がいるかもしれません。人それぞれに様々な価値観があるわけですが、周りの目はいざ知らず頼りにしている家族内で価値観が食い違うと問題が大きくなります。絶望感と悲しみに暮れる日々から一歩抜け出し、失ったペットについてはよい思い出として気持ちを整理することが肝要です。さらに、しばしの時間を経て新しいペットと暮らしてみようという気になれば、ペットロス症候群はほぼ克服したと言えます。タコつぼ心筋症、ペットロス症候群それぞれに、シェイクスピアの名言「弱きものよ、汝の名は女なり」通りの女性ばかりとは言えませんが、悩みを和らげてくれるグリーフケアの出番も多くなるというものです。