耳寄りな心臓の話(第43話)『心臓から飛び出す礫』
川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
酸素を充分に取り込んだ真っ赤な血液を拍出し続ける心臓も、時には途方もないものを吐き出すことがあるのです。血液の大部分を占める赤血球の直径は平均7マイクロメートルと極小の円盤状で、心臓から拍出されて動脈を巡り毛細血管をすり抜けて静脈に入り心臓に戻ります。ところが、この静かな循環が乱され、心臓から礫(つぶて)のように飛び出した血塊が動脈に詰まってしまうことがあります。不整脈の中でも心房細動があると血栓・塞栓症を起こすことが多いのですが、昔は不整脈は道理に合わない不倫脈と呼ばれていたようですから、聖域と崇められてきた心臓も油断すると豹変して血栓・梗塞症の巣窟に変身することもあるというものです。
一触即発の弾薬庫
心臓から飛び出す塊が血液だけの時は血栓症といいますが、動脈硬化のプラーク片などのこともあり、広くは血栓・塞栓症と呼びます。この塊の源が心臓にあることが多く、心臓弁膜症(僧帽弁狭窄症、人工弁置換術後など)、不整脈(心房細動など)、心筋梗塞、心筋症、心不全、左房粘液腫、心内膜炎、大動脈硬化症などが原因にあげられます。具体的には、これらの疾患で発生した左房内血栓、人工弁血栓、左心室瘤内凝血、腫瘍片、感染菌塊、大動脈プラーク片などが飛び出し、支流の動脈に詰まって血栓・塞栓症を起こすのです(図1)。
このように塞栓症が起こって初めて心臓に重大な病気のあることが発見されることも稀ではありません。飛び出した血栓が大きさや流れる方向によって、頸動脈から脳に運ばれれば脳梗塞を発症し、冠動脈に向かえば心筋梗塞、胸部を過ぎて腹部大動脈の分枝に運ばれて脾梗塞、腎梗塞あるいは下肢動脈閉塞症を来します。聖域と崇められてきた心臓自体が一触即発の弾薬庫に変身することがあるのです(図2)。
今も昔も変わらぬ不倫脈
心房細動では心房の拍数が異常に多く、心電図をとると小さな心房波(f波)が多数みられます。一方、心室の収縮を示すR波の間隔は全く不規則で、脈をみると飛んで抜けるような途切れるような結滞(欠滞、結代とも)が認められ、自覚症状としては動悸、目まい時には軽い胸痛や不快感などを訴えます。一般に期外収縮などの不整脈では生理的な周期性が失われた状態でも、二拍に一回とか三拍に一回の収縮といった独自の周期性を示すものですが、心房細動にはこの周期性みられないことから絶対性不整脈とも呼ばれます。このように、心房細動は不整脈の中でも全く規則性のない、実にデタラメな脈ということになります(図3)。
今は昔、まだ不整脈が心臓の刺激伝達障害によって起こるという考えがなかった時代には、脈診でみられる乱れは道理に合わない脈ということで「不倫脈」、あるいは単に「不倫」と呼ばれていたようです。現代では情事、浮気が道徳に反し倫理にもとるということで、不倫なる言葉が定着した感がありますが、欧米でも不純な恋愛やなさぬ男女の仲を an affair of the heartと表現し、心臓の一大事である不整脈とも男女間の不倫ともとれる表現になっています。
心房細動の一大椿事
男女の不倫も珍事といえば珍事ですが、心臓の不倫である心房細動も血栓・塞栓症という思いがけない一大椿事を引き起こします。心房細動を起こす原病には狭心症や心筋梗塞、高血圧、弁膜症、甲状腺機能亢進症などがあげられ、また明らかな心疾患を伴わない不整脈だけの孤立性心房細動もみられます。僧帽弁狭窄症に伴う心房細動が最も多いのですが、もともと拡大した左心房内での血流停滞がみられるところに収縮が不規則なこともあって最も動きの少ない左心耳に凝血が発生するものと考えられます。
65歳以上の人が高血圧や心不全、糖尿病、狭心症や心筋梗塞にかかると20人に3人、15%に心房細動がみられるようになり、これで脳梗塞の発症が15%高くなり、血行動態が15%減じられるとされています。このため、抗凝固療法を行って脳梗塞を予防し、薬物やカテーテルを用いたアブレーションによる洞調律への復帰が大切となります。最近の日本不整脈学会でも、「意外に多い心臓病が原因の脳梗塞」をテーマに市民公開講座が開かれたばかりです(図4)。
この心房細動の診断ですが、PET検査でも検出できることがあるのです。PET検査では糖代謝の亢進した小さな癌組織を見つけるのが本来の目的で、通常は脳と左室心筋それに尿路系が赤く染まり、さらに癌や炎症があると赤い集積がみられます。ところが、これも椿事の一つですが慢性の心房細動例の多くに右心房壁が赤く描出されるという知見が出たのです。このような新知見については、いまだ、早くから検診にPET検査を導入した我々のクリニックからの発表だけですが、心不全の指標とされる脳や心房からの利尿ホルモン(BNP)も高値を示すことから、心房壁の肥厚に伴う心臓機能の低下を示していることが予想されます(図5)。
馬にまたがる鞍状塞栓
腹部大動脈はお臍の高さで左右の総腸骨動脈に分かれて下肢に向かうのですが、心臓から飛び出した大きめの栓子が馬に跨がるようにこの分岐部に引っ掛かることがあるのです。この詰まり具合が乗馬の鞍や自転車のサドルに似た形をしていることから、鞍状塞栓症、サドル・エンボリズムと呼ばれています(図6)。
片側だけの動脈が塞がっても、反対側の動脈から回りこんだ血流で助かるのですが、左右同時に塞がって鞍状塞栓症に起こると事は重大です。両下肢から下腹部・背部の急激な疼痛、知覚鈍麻、筋力低下、冷感などが次々とやってきます。処置がされないと、下肢の筋肉が壊死をおこし、高カリウム血症、ミオグロビン尿症から急性腎不全へと進行します。数時間以内に血栓除去や血行再建を行い、さらには血液透析を開始しないと尿毒症に陥って命が危ぶまれます。緊急の手術として、通常は先端に1 ~4ml容量の小さなバルーンのついたフォガティー・カテーテルを用いた血栓除去術が行われます。
心臓から簡単に血栓が流れ出るわけではありませんが、高血圧や心不全、糖尿病、狭心症や心筋梗塞のある高齢者は要注意ということになります。清浄と思われた心臓の流れも不変のものではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」と人生の無常を述べた鴨長明の方丈記を彷彿とさせます。