耳寄りな心臓の話(第39話)『イエスの右胸、マリアの左胸』
『イエスの右胸、マリアの左胸 』
聖母マリアがキリストの亡骸を抱く「嘆きの聖母像」は「ピエタ」と呼ばれ、彫刻ではミケランジェロ、絵画ではボッティチェリの作品が有名です(図1)。ところで、受難したキリストの右胸の血の滲む創口が致命傷かと思われがちですが、キリストは十字架にかけられて野晒しにされる磔刑(たっけい)に処されたのですから、右胸の創は何を意味するのでしょうか。「ピエタ」ではマリアが十字架から下ろされたばかりのキリストの遺体を右胸に抱いている像が一般的ですが、「聖母子像」になるとマリアが幼児のキリストを左胸に抱いている姿がほとんどです。
キリストの病理検案書
日照りにさらして脱水で徐々に命を奪う十字架刑すなわち磔刑は残忍性が高く、ローマ帝国では反逆者のみがうけた最も重い刑罰とされていました。イエスはユダヤ教を批判したため、支配者であるローマ帝国への反逆者として磔刑に処されて絶命したものの、3日目には復活し昇天したと弟子たちは信じています(図2)。
さて、大学病院などで亡くなって病理解剖に付されますと、死因を中心にした詳細な検案書が発行されます。キリストの死因については、20世紀初頭に行われた証(あかし)によりますと、手のひらに釘を打っただけでは体重を支えきれず、手が裂けて十字架からずり落ちてしまうことがわかりました。体重を支えるには手首の骨の間に釘を打つ必要のあることがわかりましたが、今度は両腕に自重がかかるために肩は脱臼し、胸が圧迫されて横隔膜の動きが極度に障害されることもわかりました。このように、磔刑に処されたキリストは日照りによる脱水で亡くなる前に、呼吸困難で短時間に絶命したものと検案されたのです。
また、キリストの磔刑では、刑吏(けいり)が右の横腹に槍を刺して死亡を確認したという記述が福音書にみられます。このことからも、右横胸の傷は心臓を突き刺した致命傷というわけではなく、当時は血液循環の中心で急所と信じられていた肝臓を槍で刺し、生死を確かめた傷だったことが分りました。因みに、イエスの右胸を刺した刑吏はローマ兵のロンギヌスと伝えられ、この時イエスの血が槍を伝って目に入ったことで持病だった重い白内障が治るという奇跡が起こりました。思いがけず新しい光を得たロンギヌスは程なく入信して洗礼を受け広く伝道に尽くしたことで、後年聖者の一人に列せられています(図3)。
昔の要は肝臓
古代ローマの最大の医学者・哲学者とされるガレノスは独自の血液循環説を唱えて中世ヨーロッパのみならずアラビア文化圏にまで大きな影響を与えていました。当時は、食物は腸から吸収されて肝臓に行き、そこで血液になって右心に入るが、左右の心室を隔てる壁には小さな孔がたくさんあって左心に流れ込むと説いていたのです(図4)。
ガレノスの肝臓が循環の胴元であるという説はカトリック教会にも公認され、中世を経て近代初期に至るまで長いあいだ信じられてきたのです。重要なことを肝心、肝腎などと表現することからも、肝臓が人体にとっては一番大切で中心的な臓器とされていたことが分ります。
このように、当時は血液循環の中心は心臓ではなく肝臓にあると考えられていたために、「ロンギヌスの槍」がキリストの右胸下の肝臓を突いて出血するかどうかで生死を確かめたものであり、ピエタに描かれたキリスト像の多くに右胸下の小さな血の滲んだ傷のあることと一致します。
左抱きの聖母子像
5世紀にあった聖職者会議で、キリストが神人両性の位格を有することとともに、マリアが神キリストの母たることが公認されたことで、マリア崇拝が一気に高まり聖母マリアと幼児キリストの聖母子崇拝も急速に流布して行きました。このため、5世紀以降は「聖母子像」に多様な表現が生まれ、中でも聖子キリストを膝の上あるいは胸の前に抱く玉座の聖母子像が多いのですが、その多くが左胸に幼児のイエスを抱いた姿で描かれています(図5)。
ヨーロッパ近代絵画の創始者とされるジョットやルネサンス期のラファエロによるものなど500余の聖母子像を比較したデータでは、幾つかの例外はあるものの多くの像で左胸に幼児キリストを抱いていることが分りました(若月伸一『ヨーロッパ聖母マリアの旅』)。
右利きなのに左手に抱くということは愛情表現の一つなのでしょうが、左寄りにある心臓の位置と関係があるのだという意見もみられます。
赤ん坊が泣きやむ
生まれたばかりの赤ん坊を母親のお腹にのせると泣きやむことが多いというのも、子宮の胎内での記憶に結び付いているのではと考えられています。母児間の愛情形成や心身の安定効果があるといわれて、母親が素肌で乳児を抱くカンガルーケアにも結びつくのでしょうか。また、右利き左利きにかかわらず、母親の多くは乳幼児を先ずは左胸に抱えるという統計が見られます。
アメリカの心理学者、リー・ソーク博士によれば、右利きの母親の中、83%の母親は左側に赤ん坊を抱き、左利きの母親の中でも78%の母親が左側に赤ん坊を抱いたというデータがあります。右の利き腕を危険を回避するために残しておくという考えもありますが、左胸には心臓があって心とか精神とかに関係したものか、あるいは胎内では母親の心音を聞いて育ったことで、母親の心音に癒し効果を期待したものでしょう。
最近の矢内原ら研究によれば、赤ちゃんを泣きやませるには、ホワイト・ノイズと呼ばれるTV放送終了後のシャーという人工音の方に効果があるということがわかりました。耳慣れない音に関心が向いて、泣くのを忘れてしまうのではといった考えもあり、実際にiロボットの掃除機「ルンバ」のシャーシャッ音で泣きやむ子供がいるという事例も耳にします(図6)。
生命の根源的なリズムは心臓の鼓動にあると思われ、人間は生まれてこの方、終生このリズムに支配されているといっても過言ではありません。