耳寄りな心臓の話(第33話)『クシャミで心臓は止まるか』
『クシャミで心臓は止まるか 』
川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
欧米ではクシャミが出ると、周りの人がすかさず「ブレス ユー Bless you」と、要するに「お大事に」と声を掛け、「サンキュー Thank you」とお返ししています。なんでも、クシャミがペストの初期症状だったからとか、クシャミをすると一瞬心臓が止まることがあるので神のご加護が必要になるというのです。確かに、中世に猛威を振るった肺ペストではクシャミが特徴だったといいますが、クシャミで心臓が止まるなんて恐ろしいことが起こり得るのでしょうか。
肺ペストのクシャミ
中世ヨーロッパでは黒死病とも呼ばれたペストが大流行し、肺ペストによる死者は当時のヨーロッパの人口の1/3にも達したといいます。生と死が隣り合っていたこの頃の終末観を表現する芸術モチーフの一つとして「死者の舞踏」があり、骸骨で表現された<死者>と生き残った生者が手を取り合って踊る様子が描かれています(図1)。
飛沫感染による肺ペストではクシャミが初期症候の一つで、クシャミが出はじめるとやがて発病して数日で死んでしまったのです。そこで時のローマ大教皇・聖グレゴリウスは神のご加護にすがるしかない呪い(まじない)として「ゴッド ブレス ユー God bless you、神のご加護を」と唱えるように説いたというのです。
これより以前にもローマ人にはクシャミが良くないことの前兆とみる習わしがあり、さらにはクシャミをすると悪霊が吸い込まれてしまう恐れや、魂が外に出て行ってしまうとの伝えもありました。これと似た信仰は、インド、アフリカ、北米インディアンなどにもみられ、クシャミ一つにもそれぞれのお国事情のあることが分かります。
徒然草のクサメ
わが国にも中世にはクシャミをした時には、本人あるいは近くの人が「クサメ」と唱える習慣があったようです。というのも、昔はクシャミをすると「休息万病(くそくまんびょう)」(万の病よ静まれ)と早口で言ってお呪いしたのですが、これが詰まって「クサメ(漢字は嚔)」になったと言われています。
吉田兼好の『徒然草』の中に、道すがら「クサメ、クサメ」と唱えながら進む尼がおり、なかなかやめる気配が無いので問うと、クシャミをしたる時にこの呪いをしなければ死んでしまうというではないか、比叡山で修行中の自分が育てた御子が今クシャミをしているかも知れないと思うと気が気でないと、「クサメ、クサメ」を繰り返す殊勝なまでに心入れする変わった尼の話が綴られています(図2)。
日本では人が噂をするとクシャミが出るという俗信が広がっており、しかも、クシャミの回数によって、「一に褒められ、二に振られ、三に惚れられ、四で風邪」などと風流で悠長な解釈もあります。風邪以外の根拠は不明ですが、クシャミの擬声語である「ハクション!」はコミックの「ハクション大魔王」やコメディー作品などで意外な雰囲気作りに用いられています。
クシャミのメカニズム
クシャミは1回ないし数回の痙攣的な吸気をした後に「ハクション」と強い呼気を発するもので、鼻腔などに付着したウイルスや埃などの異物を激しい呼気とともに体外に排出しようとして起こる反射的な防衛反応です。誘因としては鼻腔粘膜の直接刺激、冷気などの物理的な原因、刺激物質の吸引、アレルギー反応などがあげられます。この刺激が延髄のクシャミ中枢に伝えられ、そこから遠心性に横隔膜や肋間筋それに咽頭筋、顔面筋へ伝わり一挙にクシャミ反応が起こるとされています。
因に「ハクション!」などの擬態語は日本独自のもので、アメリカ(sneeze)では「アチュー ahchoo !」、イギリスでは「アッシュー atishoo !」、ドイツ(Niesen)では「ハーッチ Haa-tschi !」などと微妙な違いがみられます。
クシャミはほぼ全身の筋肉を激しく運動させ、連発すると通常の呼吸ができにくくなり、体力も著しく消耗します。クシャミは付随意運動であって自分では抑制できなく、クシャミをしている間は他の行動力は奪われ目も閉じてしまいます。したがって、熱い飲み物の入ったコップを持っている時や自動車運転、機械の操作中は注意が必要です。2秒ほども目を閉じてしまうということで、高速自動車道路を100キロで走行中とするとクシャミ1回の間に50メートル以上も進んでいることになり、少し怖い気もします。化学的にクシャミを誘発する催涙ガスなどは、この行動力を奪うことを目的にしたものといえます。
クシャミ失神
鼻がムズムズした後だけでなく、綿棒で耳垢を取っている時にもクシャミの出ることがあります。耳や鼻の粘膜に張り巡らされた迷走神経を刺激したからです。まれなことですが、首を急に曲げたり堅いきつい襟による首の圧迫で起こる頸動脈洞失神があり、咳やクシャミそれに排尿の後に起こる失神もあります。クシャミで心臓が一瞬止まるのは特別な方としても、普通でもクシャミの間は一時的に徐脈になることは予想されます。
熱海からの患者さんで、「毎夏の花火見物が苦手なんですよ」の一言から、空を見上げることで頸動脈洞が圧迫されて失神の起こる「頸動脈洞症候群」と診断したことがありました。内外頸動脈の分岐部の頸動脈洞部に血圧や脈拍を調節する頸動脈小体があって、ここが異常に敏感になっていると、首を伸ばす動作などで頸動脈洞が圧迫されて舌咽神経や迷走神経が刺激され、極端な徐脈になったり脈が欠落したりすることもあるのです。精密検査の後に、頸動脈小体摘出手術に続いて心臓ペースメーカー植え込み術を行い、失神発作が全く消失しました(図3)。
頸動脈洞の圧迫試験はアッシュナー眼球圧迫試験などとともに自律神経検査法の一つであり、頻脈発作の治療に用いられることがあります。かつて空手チョップで一世を風靡したプロレスの力道山は、大男を相手にいわゆる袈裟斬り(けさぎり)チョップを打ち下ろして卒倒させる得意技で有名でしたが、彼なども巧みに空手で頸動脈洞圧迫を応用していたように思われます(図4)。
ペスト菌は1894年になって北里柴三郎によって発見され、テトラサイクリンやストレプトマイシンなどの抗生剤が有効で、国内では昭和元年(1926年)を最後に新たなペストの発生はありませんし、クシャミで心臓が徐脈になったり止まるといっても、目をつむった一瞬の出来事ですので、神のご加護をといった大袈裟な救済策も必要ないのではと考えます。